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2016/04/05

2016年3月の愛媛県医師会報に寄稿させていただきました

今回、機会をいただき、愛媛県の医師会報に寄稿させていただきました。僕はもともと西条出身で小中高まで西条市で育ち、大学まで愛媛でした。しかし、平塚市(神奈川)に親戚がいたことから、部活のあった中学校までは、「7月中に夏休みの宿題を全部終わらせたら、親戚のおばさんのところに遊びに行かせてもらう」という約束を親として、小学生や中学生の分際で寝台特急(当時は客車2段寝台)「瀬戸」や、新幹線で上京させていただいていました。それもあり、東京へのあこがれはずっと捨てられずにいました。学生の時に、医療情報部の石原謙教授(日本医師会総合政策研究所:日医総研の部長兼任)から「卒業後はしばらく東京で修業してこい」という言葉をいただき、救急医学の白川教授(現在は退官)から「東京いくなら下町の墨東だ。濱辺先生ってのが救命センターでがんばってるよ」という言葉と紹介をいただき、さらに当時、皆から「絶対にうまくいかない、挫折するだけだし、やめとけ」と言われる中、当時第2内科の助教授で現在は市立宇和島病院で診療をされている濱田希臣先生から「みんな反対しているかもしれないが、これからの世代、都会の市中病院で臨床研修を倒れるまでしてくるというのも面白いかもしれない。一人前になったらちゃんと帰ってくるんだぞ。そのかわりちゃんとした医療施設でニュートラルな研修をしてくること」という言葉をいただいた、というのがきっかけで、墨東病院に行かせていただきました。 そこで、循環器科では久保先生、岩間先生という本当にすばらしいお師匠さんに師事させていただき、内科認定医・循環器専門医・インターベンション認定医まで取得させていただき、カテーテル室の設計や病棟の運用まで仕込んでいただいて帰ってきました。帰郷に当たっては常光名誉院長、檜垣教授、石原教授の大きな御尽力とご理解をいただきました。感謝と畏敬という言葉しかありません。そのあたりのことを随想として書かせていただきました。
東京は本当に大きな街でした。まさに大都会。錦糸町こそ、東京の真ん中だ、と今でも思っています。




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